韓国映画 - クロッシング
デノミの失敗で北朝鮮が揺れているとか。どこぞのメーリングリストで市民の反抗が始まったとかいうメールを流して妙に興奮してる人がいたりする。北朝鮮の面白いニュースは、面白いけどロクでもないものが多い。
2008年に作られた「クロッシング」という映画がある。なかなか現実が見えにくい脱北者を描いた映画、ということだが、政治的に敏感なテーマだからなのか、日本では公開が遅れていて、今年の4月に劇場公開されるそうな。
確かに北朝鮮にしてみれば、不愉快な映画だろうなと思う。製作者側は政治的な意図はないという。結構苦労してるなと思うようなシーンもある。監督も、政治的なテーマを扱ったことがない人らしい。でも、北朝鮮の脱北者なんてテーマはどう転んでも政治的なテーマにならざるを得ず、政治的な評価は避けられない。
だけどこの映画は、単なる反北朝鮮プロパガンダ映画ではないと思う。この映画には、貧困だとかコッチェビだとか収容所だとか、北朝鮮が嫌がりそうなシーンがいっぱい出てくるけれど、国に捨てられた勇士が暮らす糞蝿の街が韓国の誇りだというわけでもないわけで、そのへんはあまり神経質になっちゃいかんとは思う。ちょっと昔は韓国の貧困を描いた映画が不穏映画と見なされたこともあった。ただ、韓国映画に出てくるリアルな貧困と違って、何かを通じて伝えられる北朝鮮の貧困を描くのは難しい。製作者の意図がどうであれ、また、伝えられた映像を忠実に再現すればするほど、どこかプロパガンダ映画臭い画面になってしまうのは企画の限界というべきか、あるいは狙いどおりなのか。
たとえば、南京虐殺を精密に再現した映画があったとしても、それが精密であるほど「南京虐殺はなかった」という日本の右翼にとってはプロパガンダ映画に見えてしまう。「共和国に××は存在しない」と信じている人なら、この映画の描写はプロパガンダに見えてしまうのではないだろうか。
ぼくは、北朝鮮には極限の貧困もあり、残酷な収容所もあると思ってるけど、それでもこの映画の描写がプロパガンダに見えてしまうんだから、北朝鮮当局の人だったら絶対に上映を阻止すべきとんでもない映画だと考えたとしても不思議じゃない。
ちなみに、韓国では「トンマッコルへようこそ」みたいな映画でさえ、「北韓」を悪魔的に描写しなかったというだけで左翼のプロパガンダ映画だと言われたりする(で、そういう連中がメディアクトを光化門から追い出したのだ)。何だかもう、救いようがないなあ。
生きるために命がけで国境を越える北朝鮮の人々がいる。政治でもなく、イデオロギーでも宗教でもなく、自分が生き延びるために、家族を生かすために国境を越えるしかなかった人たち。なーに、脱北者に限らない。多くの移住労働者たち、亡命者たちも、多かれ少なかれ、似たような事情を抱えている。
彼らを苦しめているのは、北の独裁者だけじゃない。
脱北者の不幸は、実は互いに非難しあう指導者や対立するイデオロギーのはざまにいることなんだと思う。「人道」を掲げて脱北支援なんかをやってる団体の中には、ちゃんとした団体もあれば、脱北者たちを北の指導者を追い詰める道具ぐらいにしか考えずに脱北者たちを窮地に追い込むようなところもある。
この映画の主人公も、ある意味では「人道的な脱北支援」の犠牲者だ。ただそうした部分をきちんと描けなかったのがこの映画の限界なんだろうし、興行的な下心もあるんだろう。
脱北者問題というと突然政治的になってしまうのだけれど、受け入れ側にとってみれば、脱北者も一種の不法移民に過ぎない。多くの不法移民がそうであるように、多くの脱北者も最低限の生存さえ確保できるんだったら、自分たちの故郷で暮らしたい。一番最後のシーンは、そんなことを訴えているのかもしれない。もうちょっと何とかすれば、すごくいい映画になってたかもしれないのに、と思う。
難民、移民の立場に立てば、豊かな国で暮らす市民には、彼らの故国の為政者がどんなにひどい為政者に見えたとしても、みんなそれなりの幸せの中で暮らしているということを忘れてはいけない。人権の名による独裁者の糾弾やら介入は、その次でいい。この順番をひっくり返すと、善意は凶器になりかねない。
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