地デジのコンテンツ
先日、雑談の中で「お爺ちゃんが孫に伝える映像自分史」みたいな話になった。「昔のニュース映像を自分史の中にはさみながら、時代背景を子供や孫に映像で伝える、なんてできたら面白いね」というような話で、「家族に見せるようなプライベートな映像だったら、ニュースや映画なんかも勝手に使ってもいいんだよね」てなことを言っていたのだが、考えてみるとコピー制限がついて、編集もできないような地デジのデジタルコピーだと、私的利用だろうが何だろうが、そういう使い方ができなくなってしまう。
まあ、デジタルの世界の話なので、抜け道なんてのはいくらでもあるし、アナログでコピーすりゃいいじゃんということかもしれないけれど、この程度の私的利用もできないような技術的な措置でガチガチに固めてしまっていいのかと考え始めたら、なんだか無性に腹が立ってきた。地デジに限らずDRMなんて全部そうなんだけど、放送ってのは違うだろと思うのだよ。
ヨソの国でもやっていない、日本の地デジが一番進んだ著作権保護システムを備えている、というつもりかもしれないけれど、逆に言えばつまり日本の地デジが一番消費者の権利って部分が弱いわけだ。ヨソの国だって、販売用のコンテンツにはDRMをかけているけど、デジタル放送にDRMをかけていないのは、まさにそれが放送だからだ。D-CASが混乱する理由を考え直さなきゃいけない。
そもそも日本の著作権にはフェアユースの考え方がないのも問題。消費者側の権利が弱すぎるからフェアユースを導入すべきだという議論も時々聞くのだけれど、本気でフェアユースが検討されたことってあるんだろうか。日本の役人のことだから、そのへん、一応は検討したりはしていると思うんだけど、そんなものを認めると既得権者への影響が大きすぎるので(というか、著作権団体やらが多分、猛烈な剣幕でねじこんでくるのだろう)あわててひっこめた、というようなところではないかと踏んでるんだが…。
インターネットのどこかで見たんだけれど、家でも移動しながらでも同じ音楽を聴きたいという時、CDがコピーできなきゃいけないという主張に対して、著作権団体側は家でも外でもコーヒーを飲みたいとき外で飲むコーヒーの代金を払うじゃないかと言って、コピーへの課金が正当だと主張したんだそうだ。
飲んだらなくなるコーヒーと、再生してもなくならないデータを同列に論じるような詭弁がまかりとおるとしたら、病気の社会だ。そのうち、鼻歌を歌っただけで課金される時代がくるかもしれない。
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