音楽というメディア
音楽はメディアじゃなくてコンテンツだろ、と言われるかもしれないけれど、そんな話じゃなくてさ。
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先日レイバーネットの会議でジョー・ヒルの映画がちょっとだけ話題になった。初期の米国労働運動で強烈なオルグのツールとして使われた数々の歌を作り、歌い、広めて絞首刑になった男の映画だ。
演説は禁止される。パンフレットも発禁。だったら、ってんで、街角の救世軍を真似て労働をテーマにした歌を歌ったという。その歌は、人の口から口へと歌い継がれ、パンフレットもないのに各地にジョー・ヒルのメッセージが広がったのである。
その後、ジョー・ヒルの歌は、ウディ・ガスリーやピート・シーガー、ボブ・ディラン、ジョーン・バエズなどのメッセージ性の強いフォークにつながっていく。
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最近、なぜかキリスト教系の音楽をよく聴く。
キリスト教徒でもないんだけれど、たとえばこの1~2か月の間にクラシック系だとバッハのロ短調ミサ、マタイ受難曲、フォーレのレクイエム、グレゴリオ聖歌、中世-ルネサンスの教会音楽なんかを聴いてる。
非クラシック系だと、いろんなゴスペル、それからちょっと珍しい韓国の「賛揚歌」、これはコリアン・ゴスペルと言ってもいいかもしれない。前に書いたイ・スヨンが入ってる関係で聴いたんだけど。
それからゴスペルだかソウルだかブルースだかデキシーランドだかわかんないけど黒人霊歌みたいなのとか、これも分類に困るんだがジョン・スコフィールドがやってるアーバン・ゴスペルみたいなのとか。
クラシック系の宗教音楽も教会の中の音楽だし、ゴスペルの場合、メディアというよりは教会の集まりで宗教的な雰囲気を盛り上げるために歌われていた音楽だけれど、まあ、ゴスペルは福音伝道の歌でもある。
今はシーズンじゃないけど、クリスマスの音楽なんかもいいね。
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これらの音楽は、今では純粋音楽として聴いても十分聴けるけど、もともとは福音を伝えるとか、労働者の意識の啓蒙だとか、何か伝えたい明確なメッセージがあった。
それを歌という形にして、つまりメディアに乗せて広がりやすくしたわけだね。
しかし、ぼくはあまり英語が得意じゃないので歌詞の意味がダイレクトに耳に入ってこない。だから純粋に音楽として聴けるのかもしれないとも思う。歌詞の意味がダイレクトにわかっちゃうと、特に宗教系の歌の場合、かなりうっとうしいかなとも思う。そのうっとうしさが歌という形にすることで聞きやすくなるのかもしれないとも思う。
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さて、著作権。
こうしたメッセージ・ソングは、口から口へとコピーされることでメッセージを広げようとした。
当然、著作権なんてものは邪魔なだけだ。ジョー・ヒルの歌はパブリック・ドメインだ。「がんばろう」などを作った日本の荒木栄も著作権を主張しなかった。
歌という形のメディアが、CDや電波など音楽産業によるメディアの「コンテンツ」になったとき、「著作者」の意志に反した不合理な干渉が始まる。これはしばしば言論弾圧的なまでの暴力性を帯びさえする。
資本主義に取り込まれたメディアは、資本に奉仕するだけのビジネスツールになってしまうわけだ。
これを考え直さなきゃいけないってことは言うまでもない。
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