靖国
遅ればせながら、昨年、変な横槍で話題になった李纓監督の「靖国」を見た。
見た人はたいてい「期待してたのに、別に反日じゃないじゃん」と言う。ぼくも同意見。
でもあのフィルムを見て不快に思う人はいると思う。靖国神社が「無断で撮影した」とクレームをつけたという話だけれど、あれを見て不快に思う人は、内容がどうであれ、不快に思うんだろう。これは「反日」云々とは次元の違う話。
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ドキュメンタリーを見ながら、ずいぶん前に死んだ祖父を思い出した。
ぼくが小さかった頃、祖父から「日本男児は正々堂々と戦え」「向こう傷は男の誇り、背中の傷は恥」なんて話を聞かされたものだ。
古い明治の男そのもので、天皇を敬愛し、毎朝、柏手を打って神棚を拝んでいた。
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祖父は頑丈な体と強靭な精神を持つ陸上競技の選手だった。太平洋戦争の時は南方で勇敢に戦ったという。数々の武勇伝があったという。そして戦場では多くの部下や友を失ったらしい。
「という」「らしい」というのは、祖父は決して戦場の話をしなかったからだ。祖母からの伝聞だが、祖母も祖父の友人などから聞いたのだそうだ。家族も祖父が語らないことをあえて聞こうとしなかった。
戦場は家族に話すような楽しく誇らしい場所ではなかったはずだから。祖父の手で命を失った人々もいたことだろう。
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ドキュメンタリーには、旧陸軍・海軍の軍服を着て参拝する一群の人々が映っている。どこか滑稽でもあり、そして悲しい。
天皇や靖国は、人々を戦争に駆り立てる仕組みであり、戦争から帰ってきた人々をケアする仕組みでもある。
彼らは敗戦の直後から、毎年あのように軍服を着て靖国参拝を続けていたのかもしれない。続けなければいられなかったのかもしれない。
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ドキュメンタリーには靖国や合祀に反対する一群の人々も登場する。
死者の魂を故郷に連れて帰りたいのだという訴えは、靖国や天皇という仕組みの矛盾を露わにする。
侵略戦争ではなかった、正義の聖戦だったという主張は、まさに合祀を取り下げることもできない靖国の原理のおかげで色を失う。
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喧騒から離れてただ黙々と靖国刀を作りつづける刀匠の姿がこのドキュメンタリーの中心にある。
彼が作る美しい日本刀は、人を殺す道具でもある。
靖国刀は、靖国が持つ数々の相反する価値を象徴している。
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大方の人が言うように、あのドキュメンタリーが「反日」だというのは間違いだ。もしあれを見て「反日」だとか靖国を貶めていると声高に叫ぶ「日本人」がいるとすれば、それは偽の日本人だ。少なくとも、勇敢な軍人だった祖父から「日本男児はかくあるべし」と言われて育ってきたぼくの中にある誇り高い「日本人」ではない。
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寡黙な刀匠が神棚に榊を供えるシーンがある。祖父もあのようにして神棚に榊を供えていた。やおろずの神々と交流する静かな時間。誰が見るわけでもなく、誰に見せるわけでもない。考えてみれば、祖父に神棚を拝めと言われた記憶はない。小学校に上がる前だったか、神棚に向かう祖父をまねて神棚に向かって手を打っていたら、祖父が「いやいや、そうじゃない、まず...」とお祭りのしかたを教えてくれた。
ドキュメンタリーの中では小泉が憲法で保証された信仰の自由とやらに触れるくだりも出てくる。脳みそがよじれそうな荒唐な論理、日本人としての誇りも品格もない政治パフォーマンス。だいたい小泉さん、参拝しかた間違ってるよ。
小泉だの石原だのといった「なんちゃって日本人」と比べれば、皇居の中で決して報道されることなく祭事をして祈っているであろう明仁、あえて靖国に参拝せずに自宅で黙祷をしているであろう無数の老軍人たちのほうがずっと正しい。公式参拝などという政治パフォーマンスは、憲法が保証する信仰の自由でもなければ、正しい追悼の仕方でもない。それなのに公式参拝とやらを要求しなければならないのが靖国の原理的な不幸だ。
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大して面白くない、という人もいるけれど、ぼくは外国人の監督が、よく作ったなと思う。
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